本州と北海道を結ぶ長大トンネル
2005〜2006年

 旅行には「観光」というイメージが強い。よい景色を眺め、温泉に入って、おいしいものを食べてゆっくりとした時間を過ごす。旅の醍醐味でもあるが、それだけが旅行ではない。小学校の教科書で初めて読んだ紀行文には「旅は見聞を広める」と書かれてあった。この言葉は両親や先生にも言われた記憶がある。
 見知らぬ土地を訪れ、風習を知り、見たこともないことを体験、体感する。世界には驚きと感動、知識と知恵が詰まっている。列車に乗って都会を離れていくと、徐々に風景が変わる。行く先の地方によって、同じ日本でも屋根瓦の形が違う、樹木や作物が違う、話されている言葉が違う、見たこともないものが立っている。後で調べたり、その時々で聞いたりして、それが何であるか、なぜなのかがわかったとき、とても充足した気持ちになれる。これも旅行の楽しみではないだろうか。
 今回の旅行先は通常の観光地ではない。青函トンネル。本州と北海道を結ぶ世界一長いトンネル(2007年3月現在)には壮大なドラマがある。旅行記というよりは社会見学に近いかもしれないが、このトンネルを造ってくれた方々への感謝の思いを込めてまとめてみた。

※本記事の内容は2年間にわたり何回かに分けて取材をしたものをまとめているため、現在では状況が変わっている施設や利用できない施設も含まれています。その点あらかじめご了承ください。

 青函トンネルは本州と北海道を結ぶ海底トンネルである。おそらく名前くらいは誰でも聞いたことがあるのではないかと思う。トンネルの長さは53.85Km。2007年10月現在で世界一長いトンネルである。トンネルそのものの話題に入る前に、このようなトンネルがどうして掘られることになったのか、その歴史を辿ってみよう。

  青函トンネルができる前、本州と北海道は海路で結ばれていた。青函連絡船である。青函連絡船については、当時の船がそのまま資料館になっているメモリアルシップで体験することができる。メモリアルシップは青森と函館の両港にあり、青森では八甲田丸、函館では摩周丸に実際に乗船することができる。

  ますば青森の八甲田丸に乗って青函連絡船の旅に出よう。東京から東北新幹線で八戸へ、さらに特急に乗って青森へ向かう。私が訪れた日はちょうど秋の低気圧が通過するシーズンで暴風雨。仙台駅を過ぎると車窓左側の車庫に、前夜札幌を発った寝台特急「北斗星2号」が運転中止になり留置されているのが見えた。新幹線も徐行区間が多くなり、盛岡駅では同じく「北斗星4号」が運転打ち切りになっていた。
 なんとか八戸駅に到着するも、そこから先の在来線は土砂の流入によって運転見合わせとなってしまっている。今日は諦めて東京に戻ろうと一度改札を出ると、駅員さんが「青森からの特急が到着しましたので折り返し電車を出します」と言う。怖いもの見たさもあり、ついこの列車に乗ってしまった。大幅に遅れて発車した「白鳥号」は時速25Kmでのろのろと進んでいく。八戸〜青森間のほぼ全線に渡って徐行指令が出ているため、まるで自転車で進んでいるかのような超鈍行旅行である。2時間近くかけて大荒れの海が見えてくると浅虫温泉駅だ。乗客は誰一人知らなかったが、まさにこの瞬間、浅虫温泉駅の雨量計は限界値を突破しようとしていたのだ。
 八甲田丸は青森駅のすぐ先の岸壁に係留されている。昔の青森駅はここで線路と船が桟橋でつながっていて、貨車や列車をそのまま船に乗せて北海道へ輸送できるようになっていた。だが今日は横殴りの雨にかき消され、ホームからその姿を見ることも難しい。

  雨量が規定値を超えたため、私の乗ってきた特急列車を最後に、接続する東北本線、奥羽本線、津軽海峡線のすべての線路が運転中止となり、青森はいまや完全に孤立した陸の孤島と化してしまっていた。駅舎内は多くの旅行客でごった返している。青森を離れるには陸路しか残されていないが、遠方まで行くバスはJRの八戸駅行きのみがわずか数便あるだけで、代替バスの手配もできないと繰り返しアナウンスされていた。
 駅で海峡ラーメンを食べて腹ごしらえをし、傘を真横に差して岸壁まで歩く。八甲田丸はあちこちが水漏れし船も大きく揺れ続けるという、まるでタイタニック号にでも乗っているかのような状態であった。見学者の数はわずか数人である。
実は青函トンネル建設のきっかけも台風によるものである。詳細は函館での摩周丸で後述するので、まずはせっかくたどり着いた八甲田丸を見学してみることにする。
 船の中はとてもきれいに整備されており充実した展示品が楽しめる。映像が飛び出すように見える3Dシアター等の設備もあり、ゆっくりと見て回るとそれなりにボリュームもある。

 

青函トンネルの歴史

 青函連絡船は明治41年、青森〜函館間に国鉄によって運行が開始された。所要時間は約4時間。当時としては極めて高速な連絡船であった。その後、客貨船、貨物船が次々と増備され、北海道への輸送の大動脈を担うことになっていく。大正3年には貨物を車両のまま輸送する貨物航送が開始され、大正14年にはこれが本格化し、桟橋で船とレールのをつなぎ、列車をそのまま船に乗せて輸送する車両航送が青函連絡船の名物風景となっていく。
 第2次世界大戦時にはほとんどの船が破壊され壊滅状態に陥るが、戦後復興し、1970年代前半には貨物、旅客ともに最盛期を迎える。船も近代化され、1964年には「津軽丸」に代表される「海の女王型」と呼ばれる大型近代船舶が登場し、所要時間も3時間50分になる。
 しかし70年代後半からは航空機や民間フェリーが普及し、本州〜北海道の輸送手段は大きな変貌の時を迎えた。以後は徐々に貨物数、旅客数ともに現象を辿り、1988年3月青函トンネルへとその使命を受け継いで、80年にも及んだ航海の歴史に幕を下ろすこととなった。

 私が学生だった頃は、青函連絡船と言えば北海道へ行くための遠い憧れの航路であったと同時に乗るのが困難な航路でもあった。津軽海峡という名の「しょっぱい川」を渡って、多くの住民と旅行者を運搬した。北島三郎氏が唄う名曲「函館の女」の歌詞も青函連絡船内で作られたという。そんな船も今は役割を終えて、ひっそりと停泊している。

 八甲田丸の船内には、当時の国鉄の客室や設備をはじめとして、数々のパネルや展示物、模型、ゲーム等で、これら青函連絡船の歴史が大変よく整理されている。順路に沿って進んでいくと、やがて操舵室に入ることができる。気分は船長そのものだ。今日は暴風雨のため、視界はほとんどなく船も大きく揺れている。航海の緊張が味わえる操舵室になってしまっているが、晴れた日なら抜群の眺望が楽しめるだろう。
 操舵室の後は車両甲板を見学する。車両甲板とは船の中に列車を詰め込むためのスペースである。フェリーでは車を積むのだが、青函連絡船では国鉄の列車や貨車を積み込むため、船の中にもレールが敷かれているのだ。函館側の「摩周丸」では車両甲板の展示はないため、現在では八甲田丸だけで見られる貴重な史料だ。狭い階段を下りていくと、突然空間が広がり、列車が私たちを待ち構えていた。展示されている列車は、当時北海道の国鉄で活躍していた最新鋭のディーゼル特急車両キハ82系や貨車、ディーゼル機関車などだ。列車はかなり大きいが、それが何両もすっぽりと入ってしまう空間に、船という乗り物の大きさがよくわかる。
 車両甲板の次は機関室である。これも八甲田丸だけが見学可能な施設である。巨大なエンジンと複雑な機械の管が織りなす光景には、まるで産業革命時代のような人間のあくなき力と挑戦欲を感じることができた。

  さて、ではいよいよ青函トンネルのきっかけとなった事件の記録を見てみよう。場所は北海道の函館に飛ぶ。
 こちらも函館駅のすぐ横に青函連絡船メモリアルシップ「摩周丸」が横付けされている。八甲田丸と比較すると、歴史や観光客の憩いの場を主体とした展示内容で、史料や眺めの良い休憩スペース、制服の展示や組紐の結び方など、面白い展示品が多い。特に船の前面の展望休憩スペースからは真正面に函館山が見え絶景である。
 展示室に入ると最初の壁面に大きく取り扱われているのが洞爺丸事故である。洞爺丸事故は1954年9月26日に起きた海難事故で、急激に移動速度を落とした台風により、洞爺丸をはじめとする青函連絡船5隻が沈没、1400名以上もの犠牲者出した。戦争を除けば、世界でも第3位という未曾有の海難事故である。この事故により、連絡船の安全がいっそう強化されるとともに、天候に左右されない安全な交通路の確保が計画が一気に具体化することとなった。それが青函トンネルである。

 青函トンネルの構想自体は、軍事目的として太平洋戦争以前から存在していた。当初は下北半島の大間町と北海道の戸井町(現函館市)を結ぶルート(東ルート)と、津軽半島の三厩村(現外ヶ浜町)と北海道の福島町を結ぶルート(西ルート)の2本が検討された。陸上の調査の段階では距離が短い東ルートが有力視されたが、実際に海底の調査が行われると、海底の深さや掘削に適さない地質であること等が判明し、最終的に津軽半島を経由する西ルートが採択された。
 ルート決定後、1961年に北海道吉岡から斜坑の掘削を開始して着工。開業の1988年まで27年間にも渡る大事業はスタートした。工事には当時の最先端の技術を持ったトンネル堀たちが集結し、人類史上かつてない大工事に挑むことになった。1967年先進導抗の掘削開始、1971年本抗の起工を経て、1985年に本抗が貫通。1988年3月13日に開業するまでの数々の異常出水や難工事を超えて、ついに世界最長の海底トンネルが完成したのである。

 青函トンネルは鉄道トンネルであるため、通行できるのは鉄道車両だけである。当初は在来線の規格で設計されていたが、途中で整備新幹線計画を受け、北海道新幹線の開通を見越して新幹線規格での設計に改められている。しかし、現在は新幹線がまだ開業していないため、在来線だけが通過するトンネルとなっている。27年間という工期の間に、時代の移り変わりと様々な政治的な影響を受け開業に至った青函トンネルの、このような経緯も歴史のひとつである。
 開業当初は国鉄の分離民営化直後の時期であり、莫大な工事費の回収が難しいとされたことから、青函トンネルの不要論も激しく飛び交っていた。なかなかに厳しい状況の中での開業であった。しかし開通後は当初の目標の通り、天候に左右されにくい安定した物流の確保に絶大な力を発揮し、特に貨物輸送において本州と北海道の大動脈となっていった。現在も、青函トンネルを通過する列車の主流は貨物列車であり、日本の物流をしっかりと支える重要な役割を担っている。

 

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